写経と私❷私には夢はない

写経と私❷私には夢はない

私には夢はない

 

自己実現系のうたい文句に

「夢の実現」という言葉が

頻繁に使われるようになって久しいですね。

私は「夢」という言葉に実は魅力を感じない

 

 

漠然としていて

「目標」に近いことをひねり出すしかないような

追い詰められた気分になってしまいます。

「夢」がなくても

実際には困ることも特にないからかもしれません。

夢は感性が鈍っていると持てないのだなぁ、と

自分の鈍感ぶりに興覚めすること多々あります。

 

 

感性の鈍さというのも「どん底」にいるときは

絶対不可欠だと経験上わかっています。

「泣いたって、どうにもならない」と

「泣くことを拒否し続けてきました。

 

 

自分では親の影響を受けたくないと

反面教師にして今まで生きてきたつもりです。

母のように「何かと泣き言」を言ったり

実際「大泣き」してトラブルを作り出し続ける。

 

子供を嚇すというハラスメントを絶対に連鎖させたくない、

 

と思ってしまうものです。

 

 

「親不孝者」というラベルを貼られていると、

鈍感でないと「その場」「その場」をしのげない。

 

怒ったり、反抗したり、批判したりという

ネガティブ感情をまったく出せなくなってしまうんです。

 

そのぐらい「恐れ」って強力。

 

だから「夢」という

柔らかくて暖かいものがあるなんてことは

「無い」にしてしまっていたんですね。

 

 

這い上がって生き延びてこれたから

今はどういう状態だったかわかります。

 

↑こんな風に一人一人が重なっている曼荼羅

 

夢は考えるものではなく感じるもの、と

わかるようになったのは「夢」についての

解釈がかわったからです。

般若心経の解説には

「この世に起こっていること、

あると思っていることはすべてが空」と

いうものがあります。

 

生きていること自体が「夢・まぼろし」

 

 

という捉え方なんですね。

そうすると、人生に起きるすべてのこと、

苦しみ・悲しみ・喜び・愛情・そういう心の動きも

移ろい続け固定されていない。

 

ふわふわ漂っている「漂流観」が

「生きてる」ってことなんだなぁ、

 

受け入れられるようになります。

 

↑コロナに似てるけど思いの世界の曼荼羅

 

 

「夢」はありませんが、何となく明るくて

暖かいものを私の心は欲しがっています。

 

 

この漂っている感覚、浮遊感

それが写経をしている時に得られる絶対的な「安心感」

だと思います。

 

 

理由や理屈が要らない世界、

 

私がここにいて「写経」をしている。ただそれだけ。

 

何ものからも束縛されない

 

自分の時間を静かに持っている。

 

真言を書くと

 

「なんだか知らないけれどリズムが刻まれてくる」。

 

 

心地よいリズムが真言にはあって、

波打ち際で波を見ているような深い安心を感じられます。

喜怒哀楽という感情を一時的に放り出すことができる。

 

 

 

ただここにいて「書いている私」は

頭の中は

 

「クラゲのように、雲のように、漂っている」。

 

 

まさに

 

「書く瞑想」の境地=ゾーンに入ることができるんです。

 

この世のことは「夢」=自分の幻想が作り出した世界

「夢」をワクワク感や目標とは違うところから知る。

「まさに漂ってぷかぷかしている」私は

瞑想ゾーンに突入しているわけです。

 

 

写経バンザーイ!

 

 

ちなみに、クラゲって脳がないそうです。

自分が生まれたことも知らないし、

自分が生きていることすら知らない、

自分が人間に毒を注入したことも知らない

自分が生殖して種の保存をしていることも知らない

自分が人間に食べられていることも知らない

だけどあんなに美しく、幻想的に

ぷかぷかユラユラしている。

「夢」なら「クラゲになりたい!」