写経と私❶両親を不幸にする私、生きていても良いですか?

写経と私❶両親を不幸にする私、生きていても良いですか?

両親を不幸にする私は生きていて良いですか?

 

思えば長い間「写経」に魅せられてきました。

最初は17前、離婚の渦中にいた時でした。

迷いに迷い実は高島易〇に「護摩焚き」を

「車を買うほどのお値段」でお願いもしました。

 

 

1年間毎日の護摩焚きをお願いしたけれど効果はなかったです。

(笑)

 

しかし、食欲もなく友人と話す気力もなく、

死ぬほどの根性も無く、時間をつぶすのに、

ただただ写経をしたのが最初です。

 

その当時「離婚をすることは悪」と

両親からプレッシャーをかけられていたの。

 

自分たちはお互いの家庭をめちゃくちゃにして

一緒になった二人なのに!(W不倫の末)

 

その二人が「おためごかし」を繰り返し、

世間体と経済的な問題しか心配しなかったので

両親といっても他人以下と深く失望しました。

一日をやり過ごす、時間つぶしの為だけに写経をしました。

 

ですから私の写経への偏愛度は

 

「自己肯定感」へも飢餓感がもたらしたもの。

 

しかしカッコだけの写経でしたけれど

「書く」という行為の不思議さを実感しました。

 

 

 

 

法華経とか観音経も書いたりしました。

書けば「生きていていいんだ」という自己肯定感を

感じることができたからです。

 

娘たちのために

絶対に強く生き抜こうとだけは決めていました。

 

 

ともかく

 

正気を保つのに般若心経を「書きまくる」日が何日もありました。

 

けれども「仏教」に帰依したいと思ったことはありません。

普通は「般若心経」を書くのが趣味、といったら

多少は仏教が好き、とか信心をしていると思います。

けれども私の場合なぜか「お寺」の出身だったり

「お寺」に嫁いだ友人がいたりして、

「お寺=職業」と感じてきました。

 

 

お葬式が少ないと

「実入りが少ない」という何気ない会話がされたり、

仏教の話を話題にしたことがありませんでした。

 

そういうこともあって、

仏教に帰依しようとか信心しようと思わなかった。

 

お盆なので「先祖供養」として

「お墓参り」に行かれる方も多いでしょう。

 

 

しかし、私の場合、

複雑な家庭環境に育ち、離婚も経験しているので

「特定の宗派」にこだわることが不可能だと思っています。

 

実家の墓はちゃんとあるの。浄土真宗大谷派のお寺に。

でも私が介護している95歳の父は「あくまでも私の養父」

であって血縁がないの。

そして私にもレッキとした生物学上の父はいます。

67歳で他界しましたが、

私にとってはこの父こそが私の父なんです。

そして静岡の浄土宗のお寺にあるお墓には

時々お参りさせていただきます。

今年は行けずじまいですが、

自粛が緩和されたら「直ぐにいきたい」と思います。

 

 

そして婚家は真言宗

こちらは25年以上の長いあいだ長男の嫁として

お寺さんのことをしてまいりましたので

一番しっくりきます。

実家の浄土真宗は「般若心経」をあげないそうです。

 

 

真言宗では「般若心経」と音の響きも強烈な「マントラ」

をことあるごとに耳にしますので、

そちらに魅力を感じるのは

当然の成り行きだったかもしれません。

私は茶道も好きなのでお茶会で訪れる

興正寺のイベント千灯祭での

 

 

「般若心経」を体験した時はトランス状態になるほどシビレました。

 

太鼓付き般若心経

 

このトランスを経験して以来

「お経は般若心経」という偏愛度がマックスに。

般若心経を「写経」をするときは無音が望ましいと思っています。

心配事や悲しいことがあって書いている最中に

ネガティブなことが頭を離れないとき、

集中したいと強く感じるときは「おりんの音」を使います。

 

 

 

このおりんの音を使うことを思いついたのは

「中村天風」さんのブザーによる瞑想集中を学んでからです。

中村天風さんも隷書で素晴らしい「般若心経」を残しています。

世に名前を知られる哲学者、作家、芸術家、学者、

経済人の多くが「般若心経」を書いています。

スティーブン・ジョブスもね。

 

文言以上に「音」で伝わるものがあると確信しています。

そして空海は

 

「般若心経」を「この世の智慧と強力なマントラ」と解釈しています。

 

仏教において釈迦は「マントラ」を否定しています。

しかし、それでも「真言=マントラ」には力がある、

人類に必要。だからこそ「般若心経」の謎や矛盾があっても

今に生き続けているのです。

意味不明の「音」のかたまりマントラ。

このマントラについても機会を作って書きたいと思います。

 

 

 

辛くて悲しくて時間がたつのがもどかしい時

自分がこの世にいてもいいのだろうか?

生きてる意味なんかあるんだろうか?という

自己否定と卑下のなかで「書く」ことだけをやって

生き延びることができたんです。

 

 

今日も5巻書いた、そういう「命」を持たせる不思議。

 

それが確かに「写経にある」と振り返ると感じます。

たかがそんな経験ぐらいで大げさな、と思われるでしょう。

でもどこにも逃げることができない時は一人の空間で

ひたすら意味なんか考えずに「書く」こと試してみてほしいです。

 

書いて絶対に恥ずかしくない文字、言葉、を書くとしたら

あとから誰かに見られてもいいものを書くとしたら

私は「般若心経」を選びます。