平清盛と秦氏は『キングダム』でいえば「呂不韋」

平清盛と秦氏は『キングダム』でいえば「呂不韋」

平清盛と秦氏は『キングダム』でいえば「呂不韋」

厳島神社の「抜頭の舞」は、
渡来人で、聖徳太子の参謀であった
「秦河勝はたのかわかつ」の子孫によって
舞われるようになりました。

 

秦氏は京都や畿内(近畿地方)を
本拠地にした豪族で、
四国での空海の父方、佐伯氏とも
交流が深く、九州へも進出しています。

 

伏見荷大社を創建したとされる
秦氏(秦伊呂具/はたのいろぐ)も
秦氏であり、
秦氏は日本の歴史に大きく関与しています。

 

秦河勝は、秦氏のリーダー的存在で
日本の歴史で言うところの
弥生時代から古墳時代に

西暦200年初頭から中期に朝鮮半島から日本へ渡ってきた渡来人

 

であり、

 

大陸の文化を日本へ持ち込み、
日本で大出世を果たした一族です。

 

西暦200年初頭というと、キングダムの「秦」
とっくに滅びていますが、
「呂不韋」のという男に焦点を当てると

 

秦氏と関係しているとしか思えない。

 

紀元前265年に呂不韋は趙の都・邯鄲(かんたん)
に来ると、
邯鄲で嬴異人エイイジン(後の秦の荘襄王)
という「秦の国の王子」で趙の人質王子に
目をつけます。

 

嬴異人は20人もいる秦の王子のひとりで、敵国の趙で人質として監視下にありました。

 

 

嬴異人は真の捨て駒に過ぎなかった人質で
呂不韋はそこに目を付け誰も見向きもしない
秦の王子に投資して出世させれば
自分も「秦」の影の統治者になれると
長期の「秦の再興」を計画した。

 

嬴異人を秦王の後継者にしようと
邯鄲に来た呂不韋は嬴異人を「色と欲」で
コントロールし始めます。

 

嬴異人を、趙の要人たちと交流させて
そして人脈作りに利用していきました。

 

さらに呂不韋は嬴異人の出身地・秦に行き
華陽夫人の姉や弟に財力で取り入りました。

 

華陽夫人は秦の太子・安国君の妻です。
次期国王が寵愛している人物でした。

 

しかし華陽夫人には子供がいなかったので、
華陽夫人の姉や弟を買収して
華陽夫人が嬴異人を養子にさせました。

 

華陽夫人は姉の言うとおりに
嬴異人を養子にしました。

 

呂不韋は趙に戻り、「華陽夫人と嬴異人」の
養子縁組を成立させた報告をして、
嬴異人の後見人になります。

 

華陽夫人の養子になった嬴異人は
「子楚」と改名しました。

 

異人という名前を子楚に!改名:名前が「異人」ですよ!

「イジン」って違う人のこと!
「秦=ハタ」もヨソの人のこと!

 

名前物語を喋りまくりたいところですが、
今回はレムリアンについて説明の最中につき
止めておきますが・・・言いたくてうずうず。

 

呂不韋の愛人だった踊り子「趙姫」を
嬴異人が妻にしたいと言い出します。

 

呂不韋は趙姫を嬴子楚に差し出し、
地盤固めをはじめます。

 

始皇帝は呂不韋の子か?

 

紀元前259年。趙姫が嬴政(後の始皇帝)を
生みました。

 

漢時代に書かれた一部の歴史書には
「嬴政が呂不韋の子供」と書かれています。

 

もし呂不韋が父なら趙姫は12ヶ月も妊娠していたことになります。

 

ですから、それは始皇帝や呂不韋を
貶めるための後付けの作り話と考えます。

 

秦が滅んだ後にできたのが漢だから、
歴史は勝者によって作られるお見本、
後付けと歴史の改ざんがされたわけ。

 

呂不韋が金を使って
嬴子楚を秦へと逃がします。

 

紀元前251年。秦の昭襄王が死去。
紀元前250年。太子の安国君が即位して
秦の孝文王になりました。

 

呂不韋の思惑通り嬴子楚は太子になります。

 

趙に残された趙姫と
嬴政が秦に脱出してくると、

 

孝文王は1年で死亡。
嬴子楚が次の王として荘襄王となる。

 

荘襄王の時代には呂不韋は宰相になりました。
紀元前250年。荘襄王が即位すると
呂不韋は後見人から相国に就任。
相国とは秦で宰相のことです。

 

 

「相国」=平清盛もそうでしたよね!

 

紀元前246年。荘襄王が死去。
太子の嬴政が即位しましたが、
13歳という子供でしたから、
趙姫が折衝になり、
呂不韋が後見する形で政治が行われました。

 

呂不韋は「文信侯」と名乗り、
洛陽に10万戸の領地を与えられました。

 

呂不韋の力は
朝廷内に及ぶことになりました。

 

紀元前241年。楚・趙・魏・韓・燕の
五国連合軍が秦に攻めてきました。
秦は函谷関で連合軍を迎え撃ち撃破しました。
このとき軍の総指揮をとったのが呂不韋です。

 

歴史に残された物語は、
『キングダム』とは、ニュアンスが違いますが

 

呂不韋の国造りは「民を金で操る」方針、
つまり自国の民をコントロールし、
政治などに関心を持たせない方針です。

 

そのために、他国からは「死なない程度」に
吸い上げる「植民地奴隷化作戦」でした。

 

・中国大陸では紀元前200年代~呂不韋
・中東では紀元~イエス・キリスト

 

我が国の飛鳥時代~
秦氏は当時の政治の中心にいた
聖徳太子からも厚い信頼を得ていました。

 

 

古代からの書物をまとめた
「群書類従ぐんしょるいじゅう」によると、

 

秦氏が渡来人であった証拠が
記載されていることがわかります。

 

以上のことか聖徳太子の側近、
そして
母親までもペルシャ人であったと言う説も、
軽視できない事実であると
言わざるを得ません。

 

忘れてはならないのが、
ここでの問題の争点は
聖徳太子や平清盛が
ペルシャ人であったかどうかではなく、

 

レムリア人のハイブリッドが
進化し続けて、政治の中心の外側から
レムリアンの国を作り上げてきた

 

壮大な「レムリアン・ジャパン」計画。

・聖徳太子は一族皆殺し前に服毒自殺。

・呂不韋も「キングダム」では服毒自殺。

・空海は病気を理由に「入定」

・平清盛はどうも「毒殺」

 

私はレムリアンの超能力者は消される前に「消える」と考えています。

 

そしてパラレルワールドで力を蓄えて
何度でも「甦り=蘇り」して
レムリア人の3次元では見えない共和国を
築き続けてきたのではないか?

 

と考えるに至っています。

 

あくまでも、私の「マイワールド」世界観
妄想ストーリーでもあるとお断りして。(笑)