真魚から空海になったけど、身分は浮浪者扱いの「私度僧」

真魚から空海になったけど、身分は浮浪者扱いの「私度僧」

真魚から空海になったけど、身分は「私度僧」で浮浪者扱い。

 

大安寺の僧、勤操(ごんぞう)は
真魚のことを知らないわけではなかった。

 

真魚の大学入学前後、
伊予親王の侍講をつとめる
阿刀大足や佐伯今毛人の一族から、
真魚の能力、とりわけ記憶力について
聞かされていたからだ。

 

しかし、運命のように勤操と
真魚が大安寺で出会うことになる。

 

初対面で、
真魚が虚空蔵求聞持法を終えて、
その時の真魚の奇妙な体験談を聞き、
真魚がただ者じゃないな!と判断した。

 

勤操も虚空蔵求聞持法の継承者だったからだ。

 

その時
私度僧にすぎない真魚から、
「空海」という法名にしたいと
相談を受けたらしい・・・

 

 

実は、それ以前に「教海」という
法名をも受けているという歴史書もある。
一足飛びに「空海」になったわけではない、
ということのようだが、
空海は謎の多い人でもあるの。

 

 

 

私は漢字の方から「空海」をみてみたい。

 

 

「空と海」しかなかったといわれる
修行の場と、悟りの場所にちなんだという説。

 

 

「空=くう」の「海」という仏教的に、
この世の「空=くう」と
「母なる海」を表しているとも言われている。

 

仏教側から説明するなら
(私は仏教者ではないけれど)

 

 

仏教では、
この世の中に存在する、すべての物は、
因縁によっておこる仮の姿。

 

 

それは全ての存在を「空」という
実体のないものだとみる。

 

 

そうみることで、
煩悩をも「空」にしてしまう。
全部ぜーんぶ、幻なんだよね!
という具合に。

 

 

また、仏教の経典に
「生死の苦界=苦海」という
言葉があって、これは

 

 

「あらゆる人々が、煩悩を捨てきれず、
悟ることも無く、まるで大きな海で、
溺れながらも必死に泳いでいるさま、
苦しみながらいる様」に
例えたともいわれている。

 

 

「空」くう、実体のないもの、「海」命の母であり、人がおぼれている世界

 

であり、人が感じることのできる世界。

 

ダイナミックな意味を持つこの
「法名」、それだけでも
「空海」のスケールのデカさが
わかるってものよね!

 

 

空海になってからは
「華厳経」を研究し始めて、
ともかく宇宙のダイナミズムのなかに、
人はいるんだと確信していた。

 

 

そして、もっと体系的な「経本」が
あるに違いない。
宇宙の神秘が紐解ける経本・・・を
探していると勤操に相談すると

 

「たしかそれは、大日経という密教の経典にあったよ」

 

と教えられる。

 

勤操も「虚空蔵求聞持法」の
保持者であるから、
記憶力は右脳でフォトコピーして
保存している。

歩く百科事典のような

エスパーでもあった。

 

 

そういうわけで、
空海は「大日経」を求めて、求めて
探しまわったものの、
とんと見つからないものだから、

 

 

「集中しすぎる脳」がオーバーヒートして
夢の中にまで
「大日経の所在を教えてくれる僧が出てくる」

 

 

しまいには真昼間に
「幻覚や幻聴」まで起こして、
空に大日経の経典がハラハラと
流れているから、と
空をにらんだままブツブツ
独り言を言い始める・・・

 

 

それで、
佐良親王=親王禅師
(罪人として配流・毒殺)のいた東大寺に、
勤操が人づてに聞いたところ、

 

 

東大寺側から
「調べるので数日欲しい、
結果は大安寺にお知らせします」と
いうことになった。

 

 

数日後に
(ホントかどうかは定かでない)
東大寺から

 

 

「西大寺と唐招提寺に写しが
あるらしいとの事でごさいます」と
返事をもらい、

 

 

空海が直接行けるように、
勤操は見せて頂けるように
お許しをいただきたいという書状を
したためて空海に持たせた。

 

 

こうして、やっとこさ空海は、

 

7巻36品の「大日経」を見ることができたそうなの。

 

モチロン、右脳でフォトコピー!

完璧に記憶してしまいましたとさ!

 

 

空海と大日経の出会いは、
実際は不明で、様々な仮説が
独り歩きしています。

 

 

夢に仏が出てきてドコソコに行け、
とお告げがあったとか。

 

 

空海が超能力で「教えてください、
どこにあるのでしょう?」ときいたとか。

 

 

ちなみに

 

西大寺と唐招提寺には「写し」があることだけは確かなようです。