空海幼くして洗脳され15歳で平城京に上る。

空海幼くして洗脳され15歳で平城京に上る。

空海幼くして洗脳され、15歳で旧都・平城京に上る。

 

真魚は生まれつき聡明で
物覚えが早かった。

とりわけ言語の発達が速く、
語学にめっぽう強かった。

オントシ5、6歳ごろから
漢文や漢籍を学び
神童と呼ばれることもあった。

 

 

だから
佐伯家の長男ではなかったが、
将来を期待されて父母から
とても大切に育てられた。

 

 

この頃には佐伯であれば、
中央の佐伯と同族であるという
意識が持たれていたので、

 

真魚は、父母や親戚から

中央の官僚である佐伯今毛人の噂話をよく聞かされた。

 

それによると
今毛人は卓越した能力の
持ち主だった。

天平年間(7219から749)に
大学を出て廷臣なった。

土木建築に精通しており
東大寺や西大寺の造営で名高く、
大仏殿を建立した立役者だった。

 

 

その後、
今毛人は60歳近くになってから、
遣唐使の長官に命ぜられたが

 

唐にわたる体力が
既になくなっていたため、
病を理由にそれを受けなかった。

 

 

 

 

その遣唐使船団が
讃岐の国の屏風浦の沖を
西へ向かったのは
真魚が4歳の時である。

 

 

私の妄想では、
この時は真魚はまだ
讃岐には行っていない。

 

 

数えの4歳では
いくら神童といいえども
乳離れしがたい歳だ。

 

母が手放さないはずだと思う。

 

本州から四国への交通手段手段は船しかなかったのだから!

しかし、

数え7歳になったころには、
きっと佐伯の父の方が
なんとしても、と真魚を
望んだであろう。

 

 

きっとお迎えにさえ行った、
そして母と一緒に
讃岐へと渡ったと妄想する。

 

 

そうなってからは、さぞかし、
父の田公は幼い真魚に、
アレコレ吹き込んだ事であろう。

 

 

この時代、
中央の官僚と言うのは
皇位継承をめぐる争いや
政争の渦に巻き込まれて
粛清されたり失脚するものが多かった。

 

 

今毛人は6人の天皇
聖武、孝謙、淳仁、
称徳、光仁、桓武に仕えたが、

その間冷静に立ち回り、
政治争いに巻き込まれる事はなかった。

 

 

桓武天皇に仕え時は
60歳を超えていたが、
土木建築についての知識を
高く買われ、
長岡京の造影に参画した。

 

 

その後、長岡京に遷都した翌年
まだ造営途中の長岡京で
桓武天皇の寵臣である藤原種継が
暗殺される事件が起きた。

 

 

その情報が讃岐に入ってきた時、

 

 

「此度は今毛人殿も
苦心されているそうな…」と
心配する親族に

 

真魚の父、佐伯直田公はこういった。

 

「とにかく、あの方は
これまでも政治の争いに
巻き込まれず、強力で
従三位まで昇られた
有能な官僚だから心配は無い」

 

 

関係ない同じ苗字の有名人を
さもよく知る親戚のように話す。

 

 

コレが洗脳でなくて、なんというのか?

今なら、
すぐに炎上するようなストーリー。

 

 

大昔に
パリス・ヒルトンがあたかも
ヒルトンホテルのご令嬢のように
世に出てきた時・・・

 

 

古今東西、そんな話は

 

ゴロゴロ転がっているけれど、

1250年も前に話なんだから
情報も定かじゃないし
偽情報を暴くような
輩もほとんどいなかった。

 

 

だって、貴族と役人以外は
その日暮らしで、苗字なんか
持っていないワケでしたから

 

 

もう、上つ方々のことなど
下々は知らないの。

 

 

自分の年さえ
知らないひとばっかり!

 

 

だが、この年12歳だった真魚は
その時の父の顔と言葉を
はっきり覚えていたらしい。

 

 

と書物に書かれているから、

 

空海は、のちにこういうエピソードを使っていたに違いない。

 

その暗殺事件から3年後…。
788年、才気あふれる15歳の真魚は
母方の叔父の阿刀大足大足に伴われて、
平城京に上がった。