蝉心経にみる「諸行無常」by 杉本健吉
私は瞑想として写経をしている。
ただひたすら書くということで集中できるし、他ごとを考えずにいられます。
何か心の中にむくむくと浮かんでくるネガティブな感情も、
書いている最中に「無」と「空」が頻繁に出てくるので、
その時は声に出して「無い!」とか「空」とかつぶやきます。
何か心の中にむくむくと浮かんでくるネガティブな感情も、
書いている最中に「無」と「空」が頻繁に出てくるので、
その時は声に出して「無い!」とか「空」とかつぶやきます。
写経ってなんだか繋がっている気がする
「そんなものはナイ!」と呟くだけで、スッと書くことに戻れる。
その繰り返しで真言まで辿り着く。達成感を味わうさわやかなひと時です。
写経が好きだと色々な方の写経にも興味が湧きます。
作品としてのアートな写経、というのも見応えがあって好きです。
見ていると、みんな「空」を感じたいのだな、と思います。
今回ご紹介する杉本健吉についてWikiから
愛知県名古屋市生まれ。幼少期を津島市で過ごす。津島第一尋常小学校(現在の津島市立南小学校)卒業。1923年に旧制愛知県立工業学校(現・愛知県立愛知工業高等学校)を卒業後、加藤静児のアドバイスにより図案家、今でいうグラフィックデザイナーとして鉄道会社を中心としたポスターや商業デザインの仕事を手がける。1925年に京都に出向き岸田劉生の門下に入る、26年に「花」で春陽会に初入選。その後、吉川英治作の『新・平家物語』・『私本太平記』等の挿絵を担当し絶賛を得る。1949年、東大寺観音院住職上司海雲師の知遇を受け、観音院の古土蔵をアトリエにしてもらい、奈良の風物を描く。奈良では志賀直哉、入江泰吉らと交流する。1971年、画壇(国画会)よりの引退を表明。しかし、画家としての創作は続ける[1]。
1987年、名古屋鉄道により、愛知県知多郡美浜町美浜緑苑に杉本美術館が開館し、売らずにいた絵画が収蔵された。また、この美術館の近くに、名古屋鉄道は名鉄知多新線 美浜緑苑駅を設けた。晩年まで毎週、同美術館に足を運び、美術館内に設けられたアトリエで、デッサンや来館者との歓談を楽しんでいたが、2004年肺炎のため死去(98歳)。
吉川英治が亡くなった時、杉本健吉は感謝の意を込めて、新・平家物語の主人公に囲まれた吉川英治の絵と手紙を描いた。
名古屋能楽堂が完成し、その鏡板(舞台の背景)の制作を担当した際、他の能楽堂では定番となっている老松を描くところを、杉本健吉は若松を描いたため物議を醸した。これに対し本人は「できたばかりだから元気が良く若々しい松の方が似合う」「伝統に決まったものはない」と語っていた。後に老松の鏡板も描かれ、隔年で配置されている。
晩年「(やりたいことを)行えばいいんです。私の場合は自然の中でたわむれているうちに絵ができた。それが私の人生だった。」との言葉を残している。また、「長生きするのが目標ではなく、絵を描くのが目的で、そのために長生きしている」とも。100歳になる年の愛知万博に自分の絵を出品して参加することを目標としていたが、その願いはかなわなかった。
精いっぱい生きるんだぞ!と言われているよう
上には仏様を配置。
下には蝉をたくさん並べられて、この死んでる姿をみると
蝉の短い現世での「鳴くだけ」の一生が切ない。
この杉本健吉画伯の墨がにじんでつぶれた文字
「無常観」が漂っていると思うのは私だけ?
杉本健吉画伯の名前が素晴らしい!
ギャーテーからの真言、何とも言えず優しい。
お手本は杉本画伯ではありませんが、絵がきれいで素敵なテキストです。
画家の杉本健吉さんの「蝉心経」。
セミは土の中七年生まれて7日間鳴き続けることを宿命付けられた「種」。
ひたすらに鳴く、命の限りの本能とはいえ、
私たちはそこに無常とか色々なことを思うことができるんです。
地元愛知の作家、杉本健吉。散華も描かれていて図柄が素晴らしい。欲しいなぁ!
榊莫山についてWiki から
故郷の伊賀から、大阪へ移住し、大阪府大阪市や八尾市に居住し、作品を創り続けていたが、やがて故郷の伊賀へ戻り、伊賀で作品を創り続けた。
50歳を過ぎて自然豊かな故郷の伊賀に戻ってからは、山野を歩き、自然に着想を求めた素朴な画にフレーズを添えた独特の書画世界を確立した[6]。
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