救急車に乗るような、私には夢はない

救急車に乗るような、私には夢はない

救急車に乗るような、私には夢はない

 

ご存知のように、今月父が他界。
手続きややることが山積していて・・・

そんなわさわさバタバタ中の
日曜日は、救急車に乗りました。

 

父の遺族年金の請求を
母のためにしてあげようと
動いているのですが、母は
通帳をなくした、と被害妄想が
激しくなって・・・

 

「盗まれた、警察にも届けた」
と、強弁して、

警察に行くなら、アッシーとして
私を使わないはずが無いのに
真っ赤なウソの羅列。

 

私にお金を盗まれるとでも
思っているのか?
超不快な罵詈雑言。

 

これじゃ、

話にならないと思ったので
「見つかったら、電話してね」と
帰って来ようとしたら、

 

今から銀行で、再発行してもらう、
と、ウソの上塗りをしようとして、
私としては、聞くに堪えない。

 

再発行には紛失届、住民票など
役所の書類も必要だし、
マイナンバーカードも必要。

 

そういうと、
「そんなもの知らない」
「見たことも無い」と
言い張って、先に進まないので

 

「まず、探してみて」
と帰ろうとしたところ・・・

 

なんと!!!!85歳の母が、走って追いかけてきた!

 

そして、こともあろうに私の目前で
転倒・・・道路に大の字なって
「イタイ!頭が!」と大声で叫び始め、
道路の通行止めをして、動かない・・

 

 

道行く人は、
「救急車呼びましょうか?」とか、

 

 

車の人は30メートルもバックして
迂回路をとるなど・・・

 

 

ご迷惑をおかけしてるのを
母は、顔上げてチラ見してるのに、
それでも大の字で動かない!

 

 

「頭が痛い!」と絶叫するので、
頭を打っていないことを知ってる
私は「大丈夫ですので、」と
言い訳をしながら15分は我慢した。

 

 

抱き起そうと踏ん張ったけど・・

だけど、私より重い母を
抱き起すのは無理でした。

 

 

あまりにも、近所迷惑過ぎて
救急車に来てもらうため119番・・・

 

 

家まで運んでいただけば助かると

そういったのですが・・・

 

 

救急隊の方も「検査は必要」と
市民病院に運んでいただき
CT撮ること3回・・・異常なし!

 

それを聞いたときはさすがに
「どこにも怪我がないって!」と
声を荒げ、タクシーで帰しました。

 

時計を見たら、家を出て

すでに5時間・・・

 

その後も、ぐったりしてしまい
昨日はブログも書けませんでした。

 

 

自己実現系のうたい文句に
「夢の実現」という言葉が
頻繁に使われていますよね。

 

私は「夢」という言葉に魅力を感じない。

 

「夢」がなくても実際には困ることも、
特にないからかもしれません。

 

夢は感性が鈍っていると

持てないのだなぁ、と
自分の鈍感ぶりに興覚めしてしまう。

 

感性の鈍さというのも

 

「どん底」にいるときは
絶対不可欠だと経験上わかっています。

 

「泣いたって、どうにもならない」と
「泣くこと」を拒否し続けてきました。

 

自分では親の影響を受けたくないと
今まで生きてきたつもりです。

 

母のように

「何かと泣き言」を言ったり
実際「大泣き」して

 

トラブルを作り出し続ける。

 

子供を嚇すというハラスメントを絶対に連鎖させたくない、

と思ってしまうものです。

親から「親不孝者」という
ラベルを貼られていると、
鈍感でないと「その場」「その場」
をしのげない。

 

怒ったり、反抗したり、
批判したりという

 

ネガティブ感情を
まったく出せなくなってしまうんです。

 

そのぐらい「恐れ」って強力。

 

だから「夢」という
柔らかくて暖かいものがあることが、

 

「無し」にしてしまうんですね。

 

心の防御機能かもしれません。

 

這いずり回って生き延びてこれたから
今はどういう状態だったかわかります。

 

↑こんな風に一人一人が重なっている曼荼羅

 

 

夢は考えるものではなく感じるもの、と
わかるようになったのは「夢」についての
解釈がかわったからです。

 

 

般若心経の解説には

「この世に起こっていること、あると思っていることはすべてが空」

 


いうものがあります。

生きていること自体が「夢・まぼろし」

という捉え方なんですね。

 

そうすると、人生に起きるすべてのこと、
苦しみ・悲しみ・喜び・愛情・
そういう心の動きも移ろい続け
固定されていない「幻想=夢」。

 

ふわふわ漂っている「漂流観」が
「生きてる」ってことなんだなぁ、と
受け入れられるようになります。

 

 

 

↑極楽浄土

「夢」はありませんが、何となく明るくて
暖かいものを私の心は欲しがっています。

この漂っている感覚、浮遊感
それが写経をしている時に得られる
絶対的な「安心感」だと思います。

理由や理屈が要らない世界、

私がここにいて「写経」をしている。

ただそれだけ。

何ものからも束縛されない。
自分の時間を静かに持っている。

真言を書くと

なんだかわからないけれど
「リズムが刻まれてくる」。

心地よいリズムが真言にはあって、
波打ち際で波を見ているような
深い安心を感じられます。

 

喜怒哀楽という感情を、一時的に放り出すことができる。

 

ただここにいて「書いている私」は

 

頭の中は
「クラゲのように、漂っている」。

まさに

「書く瞑想」の境地に入ることが
できるんです。

この世のこと
「夢」=自分の幻想が作り出した世界

「夢」をワクワク感や目標とは
違うところから知る。

「まさに漂ってぷかぷかしている」私は
「写経」で瞑想に突入しているわけです。

写経バンザーイ!

ちなみに、クラゲって脳がないそうです。
自分が生まれたことも知らないし、
自分が生きていることすら知らない、
自分が人間に毒を注入したことも知らない。

自分が生殖して
種の保存をしていることも知らない。
自分が人間に
食べられていることも知らない。

だけどあんなに美しく、幻想的に

ぷかぷかユラユラしている。

「夢」を持つなら「クラゲになりたい!」