あなたは10000時間の壁を越えているか?

あなたは10000時間の壁を越えているか?

今日の一言はアンド・アガシ

言わずと知れたテニスプレーヤーですよね!

 

子供の頃、学校の先生が漢字ドリルの宿題をノートに10回書け、と言ってた。
今思えば精神論じゃなくて脳に叩き込む方法の一つとわかっている。ともかく考えなくてもできるようになるためには自転車の運転や水泳と同じ。習うより慣れろという「行動」をともなった反復練習は王道。
練習しなきゃとわかっていても辛いよね。鉄棒なんかは特にそう思っていました。何回も足かけ周りのできる女子が、パンティをチラチラさせながらグルングルンと回るのを横目で見る情けなさ・・・
体育はさっぱりダメでしたが、なるべくかっこ悪いところを見られたくないと「必死の形相」だけはしないようにしていた気がします。コンプレックスの裏返しの「自己防衛策」だったんですね。
宿題の漢字ドリルも「10回書かなくても覚えられるけど、と内心思ったけどイヤイヤ宿題してました。」
アスリートや芸術家は10000時間の壁を越えたところがスタート地点と言われています。プロになるにはまず10000時間の壁を越えてから。私の場合は「50の手習い」に10000時間もこの先「ひねり出す」ことができるだろうか?という問題もありなので目標はプロではありません。それでも「練習」する限りは上を目指したいと思っています。
50歳過ぎてお稽古に力を入れるようになると、練習以上のパフォーマンスはできないとしみじみ思います。エアーでもお手前の練習するとホッとしますから。笑。
しかし、50歳を過ぎてから「お稽古」に没頭し始めたら、同時進行で両親の介護問題が浮かび上がってきました。親が老いて弱っていくのを見るのはつらいものです。しかし親は親で「強権」発動し始めるわけ。そんな時間があったら「親孝行すべき」という無言の強制力が働き始めたんです。
「そんなことして何になるの?」とか「着物着てちゃらちゃら出歩いて恥ずかしい」とかドリームキラーな言葉がガンガン飛んできました。今思えばそういうプレッシャーに耐えられなくなって今の仕事のきっかけになったのですから「すべては必然」だったかもしれません。が、そんな風に思えるのはのど元過ぎて「自分の味方」になれるようになってから。
みんな試練にのたうち回るのはわかっています。何のために生きているのか?と情けない気持ちになるのもわかります。なぜ私だけコンナ目に合う必要があるのか?と受け入れられないこともあるでしょう。
だけどひとつだけお願いさせて下さいね。「生きていく」って!