嫉妬妻の石之日売命イワノはフィクション:サラブレッドの悲劇

嫉妬妻の石之日売命イワノはフィクション:サラブレッドの悲劇

嫉妬妻の石之日売命イワノはフィクション:サラブレッドの悲劇

 

イワノの夫、仁徳天皇が求愛した
異母妹・女鳥王メドリが
仁徳天皇を拒絶して、
両者の異母兄弟である速総別王
ハヤブサワケノミコトと結婚、

 

 

 

夫婦で仁徳天皇に反乱を起こし
反乱が失敗し2人は討ち死に

 

 

までは昨日のお話。

 

 

メドリが、実の姉である
ヤタノがイワノによって遠ざけられ
仁徳天皇に可愛がられていない、
という理由で、仁徳天皇を
振るわけですから、

 

 

 

イワノは二重に侮辱された、
と思ったかもしれません。

 

 

 

怒り沸騰だったと思います。

 

 

イワノの祖父は仁徳に信頼される
建内宿禰、
父は当時大変な権勢があった
葛城氏の祖。

 

 

イワノは家出の際も、
自分が葛城の出ということを
強く訴える歌を残しています。

 

 

 

このサラブレット姫・イワノは
我が強く、個性的で、強気な女性
だったのは仕方ありません。

 

 

仁徳天皇は古事記の中の
男性登場神人物の中でも
1.2を争う女好き。

 

 

 

匹敵するのは神代の、
大国主命オオクニヌシ
ぐらいと言えます。

 

 

 

偶然かもしれませんが、
そのオオクニヌシの正妻
須勢理毘売命スセリヒメも
嫉妬深い性格で有名でしたね?

 

 

 

ただ、

 

こちらはオオクニヌシの奔放さ、
スセリの我慢強さが目立つのですが、

 

 

仁徳天皇は恐妻家の面が
描かれています。

 

 

カカア天下の典型ともいえる。

 

 

 

一夫多妻が常識の時代、
そんな女好き男の奥様が、
ここまで嫉妬深く、
強気な性格の女性だと、

 

 

仁徳天皇も
お気の毒に見えます。

 

見せているのかも?

 

 

古事記を今の陛下がお読みになったら
苦笑いをなさるのでは?

 

 

 

しかし、そんなイワノには、
激しい気性一点張りではない
可能性もあります。

 

 

 

古事記にはないけれど、
万葉集に載っているイワノの歌に、

 

 

ありつつも 君をば待たむ 打ち靡く わが黒髪に 霜の置くまでに

 

 

というのがあります。

 

 

「豊かな私の黒髪が白くなるまであなた(仁徳天皇)を待ちましょう」

 

というもの。

 

 

 

あまりにも一途で切ない歌に、
別人の歌ではないか、という
指摘もありますが、

 

 

古事記のイワノ本人の歌として、
仁徳天皇の浮気を知った時、
一番怒っている時のはずの歌が、
実はそれほどの激しくないの。

 

 

古事記などに描かれている
嫉妬深く、強気の皇后

 

 

という

 

 

イメージ戦略ではないか?

 

 

 

メドリ夫婦の反乱も
イワノを登場させて
「死刑執行人」としての
烈女を印象付けるためでは?

 

 

 

お血筋が良いだけに
「財閥わがまま令嬢」としての
マイナス面のキャラを打ち出し

 

 

 

政治的に利用するのに
好都合な女性として
「悪役」を後世のために
引き受けさせられた・・・・

 

 

 

私にはそんな風にも思えます。
激しい嫉妬は仁徳天皇への
愛情の裏返しかもしれません。

 

 

 

そうなると、日本史上初の
フィクションとして作られた
「嫉妬深い」妻、で「烈女」
になるのかもしれません。

 

 

悪いのは女癖の悪い
「仁徳天皇」じゃないの?

 

 

 

すくなくとも現代なら
離婚のときは
100%悪い旦那さんですよね?

 

 

 

だからこそ、祟られたら大変
祟ってやるぞ、と出てきても
不思議じゃない!

 

 

 

 

このお墓のスケールを見れば明らかじゃないの?

 

 

 

天皇クラスのお墓ですよ!
後釜用意して
「死ぬを待たれた」悲劇の妃

 

 

 

サラブレッド=VIPの
悲劇だと言えるでしょう。

 

 

ちなみに

 

古事記に見える言動をもとに考えれば、日本古代史上有数の女傑であるイワノ。彼女のお墓はヒシアゲ古墳(奈良県奈良市佐紀町)とされています。陵名は平城坂上陵(ならのさかのうえのみささぎ)。佐紀盾列古墳群(さきたてなみこふんぐん)に属する、200メートルを超える巨大な陵墓です。

時代によっては前後がありますが、天皇陵と言ってもおかしくないほどの規模。一皇后の陵墓としては異例と呼べるほどの大きさかもしれません。

実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「平城坂上陵(ならさかのえのみささぎ)」として第16代仁徳天皇皇后の磐之媛命の陵に治定されている。