神様はお気に召さなきゃジェノサイドなんてヘッチャラさ!

神様はお気に召さなきゃジェノサイドなんてヘッチャラさ!

実は善人とは限らない「日本の神様」驚きの正体というのは平たく言うと神様の定義でもあるの。

 

もともとは「とてつもない力を持ったもの」
というのが「神様」であって、
神様だから私たちに「良いこと」だけを
くださるわけじゃぁない。

 

そのことは「祟り」っていう言葉が
端的に表しているから、
無意識で受け入れているものでもあります。

 

どういうことかというと、
錆びれた神社はヤバイ!っていうのが、
まさしくソレ。

 

 

 

神様が「放って置かれて、面白くない」
というエネルギーが満ち満ちているから、
うっかり知らない間に神様のお社である
「神社」をないがしろにして「祟り」を
被ることもアルとされています。

 

まぁ、神様を「怒らせたら大変だぞっ」てことなのよね!

 

 

島田裕巳の

『教養として学んでおきたい神社』

によると、

子供が生まれたときの初参りや七五三、
必勝悲願や安全祈願など、
神社は私たちの日常の暮らしの中に
しっかりと根づいている。

 

「神社について知ることは
日本を知ること」だという。

 

 

では、日本における「神」とは何か。

 

 

江戸時代に、本居宣長が『古事記』にのめり込んで注釈をした『古事記伝』では、日本の神様は

凡(すべ)て迦微(かみ)とは古御典等(いにしえのみふみども)に見えたる天地の諸(もろもろ)の神たちを始めて、其を祀れる社に坐す御霊(みたま)をも申し、又人はさらにも云(い)はず、鳥獣(とりけもの)木草のたぐひ海山など、其与(そのほか)何にまれ、尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳(こと)のありて、可畏き(かしこ)物を迦微とは云なり。〔すぐれたるとは、尊きこと、善きこと、功(いさお)しきことなどの、優れたるのみを云に非ず、悪(あし)きもの、奇(あや)しきものなども、よにすぐれて可畏きをば神と云なり。

 

 

難しい言い回しですねぇ。

 

宣長はここで、「迦微(かみ)」という
表現を使っているんですが、
神話に登場する神々をはじめ、
各地にある神社に祀られている祭神、

 

 

さらには、人だけではなく、鳥獣、木草、
海山なども、それが通常のものより
《すぐれていれば神》であるとしている。

 

 

そして、神の基本的な性格である
《すぐれたる》について注釈を施し、
善いものだけじゃなく、悪いものも、
奇しきもの(アヤシ)でも、

 

それが他のものにくらべて並外れていれば、どちらも神であるとしている。

 

つまり、神様っていうのは何だって
神様に祀り上げれば
「神様」には違いないんだけれど、
善い神様ばかりとは限らない。

 

八百万の神々のなかには、
悪い「迦微カミ」であっても、
そのパワーのほどがデカクて、
とんでもなくスゴイなら、
それは「迦微カミ」だというのである。

 

 

キリスト教の神も、
世界を創造したという点では
善なる存在かもしれないけれど、

 

自分が作った人類が堕落していると思えば、
ノアの洪水を起こしたりして、
人類を間引くことも平気でする。

 

なにを堕落というのかは置いておいて、
「お気に召さない場合ははジェノサイド」
っていうことのようです。

 

ノアの洪水のような人類滅亡作戦も神様の人類に対する「怒り」の独断。

 

そういうことをしても、
神様は責任も取らないし、
あとのことは勝手にすればという
傍観者ともいえそうです。

 

神様は全知全能ということになっているから、
八百万の神々とは全く違うのね!

 

ひとりで何でも決めちゃって、
神様のすることは全て「善」ということ。

 

その点、八百万の神々は、古事記にあるように
「怒ったり、拗ねたり、暴れたり、ケンカしたり、
戦争したり」するので、
まるで人間のように人間臭いんですが・・・

 

 

人間と神様との線引きは「その並外れた、とてつもない力」にあるわけです。

 

 

で、その「並外れた、とてつもない力」を
大きくしたり、小さくしたりするのが、
私たち人間で、「大切に祀る」

 

その《おもてなし》具合に
かかってくるということになっています。

ずいぶん、分かりやすいと言えば分かりやすい・・・