『水滸伝』豹子頭林沖、センチメンタルにも妻の字に命捨てる!ところだったけど、危機一髪。

『水滸伝』豹子頭林沖、センチメンタルにも妻の字に命捨てる!ところだったけど、危機一髪。

私が『水滸伝』ファンなのは周知の事実。

今回のテーマはズバリ!妻の名前の文字に踊らされた豹子頭林沖

私の大好きなニヒルで死にたがりの漢である林沖。

林沖騎馬隊を率いての大活躍の場面は一々クールでカッコイイ。

その林沖、自分のせいで妻が首吊って自殺したと思い込んで

それが彼の「いつでも戦で死にたい病」の原因なんですが、

梁山泊には簫譲という人の字を完璧に書ける職人がいる。

しかし、敵の青蓮寺にも知恵者がいて林冲のこの心的外傷を

利用して嵌めようとする作戦がとられました。

 

候健という仕立屋の梁山泊のスパイが偽情報を流されて

泳がされちゃったんです。

林冲は妻のことは「忘れた」と記憶を封印していたのですが

今回は彼のセンチメンタルな部分を逆なでされて

彼らしくもなく一騎打ちの最中に一丈青扈三娘を馬から

引っ剥がして岩に向かって叩きつけるように投げちゃった。

 

さぁ、漢がするやり方じゃなかったということに林沖は

スグに気づくのですが、戦の最中なので胸張って自分の

騎馬軍団に戻っていくんです。

 

まさに目を覆うヒュルルーな後味の悪い場面であります。

張籃(原文では草冠ですが字が見つけられず申し訳ありません)

以下、偽の情報に踊らされる場面を引用いたします。

 

張籃のことだろう、と林冲にはすぐわかった。

先を促すように、呉用が卓を指先で軽く叩いた。

候健が懐に手を入れた。

出したのは破れかかった紙片だった。

「この字は」

候健は林冲を見つめていった。

紙片には、張籃という字が大きく書かれている。

間違いなく、張籃の字だ、と林冲は思った。

候健が林冲を見つめている。

林冲は頷いて見せた。

「よく見てくれよ、林冲。字は小さければ

小さいほど真似がしやすく、大きければ真似はなかなか

難しい、と簫譲は言ったこれは名を書いたにしては

大きな字だ」

「張籃の字だ。間違いない」

全員が、卓に置かれた紙片を黙って見入っていた。

「これをどこで?」

「開封府郊外の、呉盛の屋敷だ。あそこは広大で人眼につかない。

身分がある人間が通うのに、適当な場所かもしれない。」

「わかった」

 

「林冲、まだ確かなことではないのだぞ。私が泳がされている

のだとしたら、青蓮寺の罠であることも考えられる」

「これは妻の字だ」

自分のような人間を罠にかけて、何の意味があるのだ、

と林冲は思った。

罠なら、宋江か晁蓋、それから呉用あたりにかければ、

梁山泊としても大打撃を受ける。

自分がいなくなったとしても、代わりができる人間は、

騎馬隊にはいくらでもいるのだ。

 

「もうひとつ深く、確かめさせてくれ。私自身が、張籃殿の

顔を確かめる。それから方策を話し合おうではないか」

「頼む」

林冲は短く言った。

背中に視線を感じながら幕舎を出た。

自陣に戻ると、郁保四が直立して旗を立てていた。

 

「どうした?」

「いえ。旗を立てるべき時だ、と感じましたので。

いけませんでしたか?」

「いや、いい。これからも、おまえが旗を立てるべきだと

考えたら、俺の命令がなくても立てるがいい」

郁保四の、がっちりした肩を林冲は片手で叩いた。

 

引用 北方謙三『水滸伝』六巻 p 312-313

 

この後、豹子頭林沖はひっそりと戦線離脱して

妻探しに出奔してしまうのです。

 

ニヒルな漢、林冲の感傷的な妻への愛情。

胸を打つのですが、話題はそこじゃない!

これほどかように、名前を書いた「文字」に

林冲ほどの漢でも命を捨てる覚悟をしてしまう。

モチロンここに至るまでの林冲の新婚生活や

朝昼晩を問わずの強烈な性交場面も最初にチラッと

出てきていて読者はわかるんですね、漢のロマンが。

 

北方謙三さんのファンは男性が多いから特にニヒルな漢の

いらだちや皮肉な言動には「わかるわかる」と納得される。

私もかつては「林冲でも愛には弱いのよね」ぐらいに

読んでいましたが字に騙されるなんて!バカね

字だからこそ騙されちゃったのよね!と180度

読者としての態度は変わりました。

筆跡診断士としては

「張籃の字だ、間違いない」

は非常に正しいわけで、だからこそ

北方謙三さんはこのエピソードをひとつのスパイ事件

として描いているのです。

 

私がもう一つ感心してしまったのは

『字は小さければ小さいほど真似がしやすく、

大きければ真似はなかなか難しい、と簫譲は言った。

これは名を書いたにしては大きな字だ。』

という真理!名前を大きく書く、気持ち良く書く

それだけのことの難しさをもさらりと書かれています

 

名前はその人そのもの。

林冲は字を見ただけで「もう自分をコントロールできない」

ほど揺さぶられたのです。

私たちの手書きの手紙が、どうして人を感動させるか

字はその人そのもの、相手に対して時間を使って

伝えたい思いがあるから伝わるのです。

 

ホリエモンさんが「バカとはつきあうな」とかいう本で

手書きの手紙は相手に時間をささげる服従の証、

のようなことを述べていらしたそうですが、

経済活動モンスターですから許してあげましょう!

そのかわり、ホリエモンの「あざとさ」については

後ほどたっぷり書かせていただきますからね!

手書きは読みたくないと言ってるくせに

自分の著書には手書きでセマル、これを「あざとさ」と

言わんとするなら他にナント言ったらいいの?