魔法じゃないけど魔法の手紙!文字を書くことで「自分を救う」究極のサバイバル!

魔法じゃないけど魔法の手紙!文字を書くことで「自分を救う」究極のサバイバル!

神頼みしたことありますか?

 

私はあります!

イチロー選手の小学生の時の作文は

書くことで叶えた系の本で参考にされることが多いようですが、

 

かくゆうバーバラも腰痛で歩けなくなった時は

神頼みしまくりました。

 

『魔法の手紙』を熟読して書くことは

神様との約束。というところにピピッ!

 

神様と約束ならおろそかにはできないぞ!と

丁寧に書きました。

 

書くことは全部自分に帰ってくる

 

そう信じて「歩けるようになってありがとうございます!」

「痛みがなくなって、毎日幸せです」

と合計1万回は書きました。

 

 

寝ている間中「ありがとうありがとう」と

小林静観さんの本にあるように呪文のように

感謝の言葉をつぶやきまくりました。

 

結果的には書いて呟いてなぜかしら不思議に

私とは利害関係の全くない方からたくさんの

「ご縁」を頂き完治することができました。

 

書いたから叶ったのではなく意識がその一点に

集中して「ご縁」を引き寄せた、もしくは

アンテナでキャッチできたということかな、

と思っています。

 

昔から人びとは「書く」ことによって、

願いが叶う可能性が高くなることを知っていました。

 

七夕飾りの短冊や、神社の絵馬に自分の名前を

キチンと書いてお願いごとをして奉納してきたのも

その表れと言えるでしょう。

 

その一方で他力本願的な態度で願いを書き連ねて

待つだけでは魔法は起こりません。

 

イチロー選手の素晴らしさは目標を書き

それに向かって最大限の努力を継続したこと。

 

「自分が書いたこと」が「自分が受け取るもの」

になるというのが「書くときの黄金律」と

はづき映虹さんは『魔法の手紙』で何度も

繰り返し強調されています。

 

「書く」という行為の神秘的な側面を知りたければ

ご一読をオススメします。

 

ただ「書いた」ことがバタフライ効果を伴って

違う側面からサポートされるということがあります。

 

これも「ご縁」の世界観ですのでスピリチュアルを

得意とする方には「当たり前」のことでしょう。

 

バーバラが経験したのは意識して書くこと、

字の意味を深く自分なりに探り「書く」

 

自分が望んでいることにピンポイント集中して

この「書く」行為によって「思いのエネルギー」

増幅、加速させることができる。と知ったことです。

 

ですから問題は書き方と意識の融合。

整合性のない文字を書いても「エネルギー」を

増幅・加速させることはできません。

 

例えば「お金持ちになる」と漠然と書く。

コレ最悪のケースですよね!

意識すれば意識するほど「お金」は逃げる。

 

だいたい「お金」は何のためにあるのか?

何のために使うのか?そちらを意識しなくちゃ

「お金」と意識してイメージするのは「紙」

じゃありませんか?

 

だからお金持ちになりたい系の本には

リッチな食事風景や車や住まいをイメージしようと

書かれているんですよね。

 

究極は「なりたい自分」とのギャップをイメージで

埋めていこうというハウトゥーですよね?

 

でも知らないことをシズル感をもってイメージできますか?

 

例えば婦人画報に乗っているような一流料亭の

雰囲気、対応、お料理が出てくるまでの演出、

味、そこでされる会話、匂い、器など微に入り

細に入りイメージするには本物の記憶から

引き出すしかないということを理解しているか。

 

ちょっと感じ悪いことを書いていることは認めます。

 

でも宝くじ当たった方のその後という話は

よく耳にしますでしょう?

 

私の大好きな宮部みゆきの小説のなかでも

「富くじ(宝くじ)に当たって利用されたり

神様扱いされて有頂天からどん底に落ちる」

人が出てきます。

 

 

「富くじに当たる覚悟がない奴が買うな」という

教訓ですが、余るほどのお金も気持ちの良い

使い方、流し方を知らなければ身を亡ぼすのです。

 

 

「書く」ことの怖さも知っておかなければなりませんね。

悪口、恨みなどの「怨念」ワードは絶対やめましょう。

あなたが小説家なら書く必要あるでしょうけど

一般人なら「自分が受け取るもの」に集中すべき。

 

私は読書が好きですが高村薫さんの「照柿」

衝撃的な一説を忘れることができません。

 

子供のころに「オマエはいずれ人殺しになる」という

イジメの手紙がその人を殺人者にしてしまう。

 

あぁ、潜在意識に強烈に刷り込まれた悪意の言葉

現実化してしまったんだな!と思いました。

 

それほどネガティブな言葉は強烈です。

ネガティブな発言を嫌うのは「本能」なんですね。

 

ネガティブな発想自体は「最悪の想定」には

必要でしょう。

 

お気楽ポジティブ派ばかりでは「想定外」を予想して

事前の対策を練ることはできませんからね。

 

 

でも、それは可能性のひとつ。と割り切って

そこに意識を集中しないでおきましょうね、というのが

楽観主義でいようということだと思います。

 

人にはいろいろなことが起きていて、それは全部違う。

私の場合はいろいろな痛いこともあったけれど

こんな風に「文字」「筆跡」「心のありかた」

に出会って今に至っています。

 

私は子供時代に色々な大人の思惑に振り回されて

苗字が何度も変わるという体験をしました。

 

 

そのおかげで教科書の名前をマジックで書いてあるのに

書き直さなければならないという惨めな気持ちを味わい

名前に対してネガティブな思いがあったんです。

 

ですから何十人もの人から

 

「良く病気にならないね!こんなに画数悪くて」

 

と言われても「名前」じたいに思い入れが無いので

却って気にならないでいました。

 

恐ろしいですね!

イヤだと無視しちゃうどころか「意識」すら

放棄してしまうんですね!

そんな時に急にすべてに恵まれている友人が改名して

「どうして名前の字を変えたの?」と聞いたところから

「人生を変えるため」と断言されて連れて行かれたんです。

 

 

今思えば私はエニアグラム9ですから、

「あなたが良ければ私はいいのよ」

ついていっちゃったんです。

 

これも「ご縁」というのでしょうか?

 

20年ぐらい前に名前の漢字を改名したことも

「名前」との出会いだったと今は思います。

 

その時に「宇宙の神様から頂いたお名前ですから

大切に毎日きちんとお名前を書いて心に沁み込ませて」

とお言葉をいただきました。

 

その時は「他の名前の漢字候補があまりにも

下とか桜とか不吉な印象があった」ため深く響かなかった。

 

 

「宇宙の神様が漢字の画数をみるの?」という

イケナイ気持ちを持ってしまったことも失敗でした。

神様を疑ったりしてごめんなさい!

 

筆跡心理学を学んで「その漢字の思い」を深く心に

落とし込むまでは10年以上のギャップがありました。

 

もし昔に戻れるならばツライと感じたことの

幾つかは回避できていたかも知れないと臍を噛む思いです。

 

現実にできること、神頼みのハシゴをするのではなく

対処としての行動をしているかどうか?

 

他力本願とは自力を尽くした先にあるもの。